飛鳥を守った大恩人 御井 敬三(みい けいぞう)氏(1918〜71)
「声の直訴状」で明日香村の保存を訴え、
時の総理の心を動かした男。
この行動が通称「明日香法」の制定に繋がり、
飛鳥の歴史的風土が守られてきました。
和歌山県出身の御井氏は小学校を卒業する頃から視力が低下、盲学校を経て漢方医の道を歩んだ。終戦後大阪市内に脈診研究所を開き、脈に触れて患者の病状を診断し、ハリとキュウで治療する医院を経営。漢方医としての評判は高く、多くの患者を診ていた。
御井氏が飛鳥を訪れたのは昭和40年初めのころであった。職業とする漢方脈診が、千数百年の昔、飛鳥に伝わったことを知り、飛鳥に興味を覚えた。喧噪の大阪と違い空気は美しく不自由な目に古からの素朴な風景の残されているこの地に心を打たれ、農家の柴小屋を借りて別荘にし、月に二~三度来村するようになり、その後足しげく運ぶたびにますます飛鳥のとりこになった。
万葉にうたわれた飛鳥川や甘橿丘、小屋から手のとどく範囲でさえ、古代人の生活がしのばれる。御井氏は弟子に診療所をまかせ、居を飛鳥に移してしまった。
折も折御井氏は飛鳥の昔ながらの風景も、隣接する橿原市の方から次第に破壊されはじめているのに気づいた。宅地開発の波が甘橿丘のすぐ西側まで迫ってきているのである。なんとかこのままの美しい姿で残って欲しい、次の世代につたえて行きたい。
その思いが御井氏を飛鳥保存へとつき動かしたのである。私財を提供して「飛鳥古京を守る会」を活性化させ、また「飛鳥村塾」の開講により飛鳥の自然と史跡を積極的に守り、飛鳥を愛する人々を育てる場としてさらに日本民族の故郷飛鳥の歴史・文学を通して日本人としてのこころを養う場として開放したのである。
こうした中で御井氏の熱い想いは時の首相 佐藤栄作氏にあてて飛鳥保存をして欲しいという直訴状を送ることに発展する。
昭和45年正月のことである。以後飛鳥保存は、一地方・一個人の取組から国家政策に組み込まれて行くのである。