飛鳥の歴史のあらまし
天武・持統天皇陵
古墳時代の始まりは、邪馬台国が初期ヤマト王権(政権)へと移行する頃ではないかと考えられるようになっているが、ヤマト王権(政権)の大王たちは、巨大な古墳を築き、権勢を誇示した。飛鳥地域には古墳時代前半頃の古墳は未発見であるが、古墳時代中頃には、朝鮮半島から多くの渡来人が新しい技術を携えて日本列島にやってきた。飛鳥地域にもこれらの渡来人がやってきているが、古墳時代の後半頃から、多くの渡来人が歴史の表舞台に登場するようになった。
古墳時代に続く飛鳥時代は、王権をめぐっての争いが激しく、豪族の間でも対立が深刻化し始めていた。飛鳥時代直前に伝来した仏教に関して、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との争いがその一例として挙げられよう。聖徳太子は、推古天皇が即位した時期に摂政として政治をよく助けたとされるが、その政策は、仏教を基調とするものであった。天皇中心の統一国家を築き上げるため、冠位十二階を定め、憲法十七条を制定し、史書の編纂をはじめている。
飛鳥時代の東アジアは、589年に隋が中国の南北朝を統一するとともに、朝鮮半島において諸国間の戦闘が激化した動乱の時代であった。618年に隋が滅んで唐がおこると、唐は律令によって国家体制を整え、その影響力は周辺諸国に波及し、国際情勢は大きく変化した。遣隋使・遣唐使が派遣されたのもこの時代である。朝鮮半島は、7世紀の中葉まで百済、新羅、高句麗の三国に分かれていた。日本は百済など朝鮮諸国とも交流を重ねたが、663年の白村江の戦いで、日本と百済の連合軍は、唐・新羅の連合軍に惨敗を喫している。
国内でも、645年の乙巳の変とそれに続く大化の改新、672年の壬申の乱という、歴史上の大事件が起こった。壬申の乱後は、天武天皇によって飛鳥浄御原令の編纂が開始され、持統天皇の時代に完成した。694年には飛鳥から藤原京への遷都が行われ、大宝元年(701)には大宝律令が完了した。
飛鳥時代は、大陸の制度や技術、文化を積極的に導入し、わが国が独自の文明化を推し進めた時代であった。仏教の伝来・定着はその先駆けであり、冠位十二階・十七条憲法の制定、飛鳥寺の造営などは、新しい政治思想や宗教観にもとづく国づくりの始まりとみることができる。また飛鳥京に続く藤原京は、中国の条坊制に基づくわが国最初の都城であり、都市の誕生でもあった。
飛鳥の歴史には、いまだ解明されていない問題が残されており、今後の調査研究を待たなければならない事も数多くある。しかしながら、現在では美しい水田や農村風景が広がるこの地に立てば、古代国家形成に情熱を傾けた人々の息吹が聞こえてくるようである。