明日香村北部にある甘樫丘から北方から西方を望むと、奈良盆地と大和三山(畝傍山・香具山・耳成山)、遠く二上山などを見渡すことができる。振り返って、東方を望むと、小さな盆地に水田が広がり、「飛鳥」集落がある。この中でひときわ大きな屋根を持つのが飛鳥寺である。飛鳥周辺の山々や水田景観、四季折々にみせる美しい集落の景色は、この地が「日本人の心のふるさと」と呼ばれる由縁である。しかし、それだけではない。水田や集落の下には1400年前の遺跡が数多く眠っている。それらは、日本が国家として確立した「日本国誕生」を示す記憶である。
では、なぜ「アスカ」と呼ばれたのか。渡来人が安住した地を「安宿」と名付けたという説や、「イスカ」という鳥からとった説、地形を示す「スカ」に由来する説などがあるが、いまだ定説はない。
飛鳥地域と呼ばれる範囲は、一般的には奈良盆地南部の明日香村を中心に、大和三山(畝傍山・香具山・耳成山)に囲まれた地域など橿原市の一部、桜井市や高取町の一部を含んでいる。しかし古代において、厳密に「飛鳥」と呼ばれていたのは、飛鳥寺と飛鳥宮跡の場所(現在の明日香村飛鳥・岡)だけであった。
現在の明日香村は、戸数2,200戸、人口約5,400人(令和3年4月現在)の農業を主な生業とする村で、総面積2,400ヘクタールすべてが明日香村特別措置法に基づく第1種及び第2種歴史的風土保存地区、都市計画法に基づく風致地区、景観法に基づく景観計画区域などに指定された村で、貴重な遺跡の宝庫といわれ、他に類例のない貴重な歴史的風土が維持されている。
飛鳥時代とは、推古天皇が豊浦宮に即位した6世紀の終りから、平城京遷都までの約120年間を指す。その意味で、豊浦宮は飛鳥時代の幕開けを告げる宮殿と言える。以降、舒明天皇や斉明(皇極)天皇・天武天皇は飛鳥地域に宮(飛鳥宮跡)を置いた。この間に都が飛鳥を離れたのは、孝徳天皇の難波宮と天智天皇の近江大津宮だけで、わずか15年に過ぎなかった。しかも、その間も飛鳥には留守官が置かれ、維持されていた。それ故この時代の政治文化の中心は飛鳥にあったといってよい。
飛鳥時代は、中国・朝鮮半島からの仏教伝来にともない、古墳時代から脱皮し、新しい文化を発展させた時代であり、政治、経済、社会、文化ともに大変革が試みられた。天皇を中心とした律令国家へ飛躍するという意味において、日本国家成立の時代ということができる。
では、なぜ飛鳥が都に選ばれたのであろうか。当時、渡来人の力を得て急速に勢力を増していた大豪族、蘇我氏の影響が考えられる。蘇我馬子は飛鳥周辺の開発に力を入れ、587年に我が国最初の本格的伽藍を持つ飛鳥寺を発願している。さらに飛鳥は、甘樫丘や多武峰に囲まれた小さな盆地になっており、守りやすい地形だったことも一因であったと考えられる。